イタリア島嶼部というとイタリアの島すべてについて解説しているように見えるかもしれませんが、世界遺産が存在している島は3つしかありません。島嶼部に6つある世界遺産のうち、4つはイタリア最大の島であるシチリアに存在します。シシリアンマフィア――コーサ・ノストラの発祥地としても有名であり、全くご存じないという方はほとんどいないでしょう。残る2つの世界遺産ですが、うち1つはサルデーニャ島に存在する文化遺
イタリア島嶼部というとイタリアの島すべてについて解説しているように見えるかもしれませんが、世界遺産が存在している島は3つしかありません。島嶼部に6つある世界遺産のうち、4つはイタリア最大の島であるシチリアに存在します。シシリアンマフィア――コーサ・ノストラの発祥地としても有名であり、全くご存じないという方はほとんどいないでしょう。残る2つの世界遺産ですが、うち1つはサルデーニャ島に存在する文化遺産。そして最後の1つは島自体が自然遺産となっているエオリア諸島です。個々の世界遺産に移る前のトップページでは、イタリア最大の島:シチリア島にスポットをあてて、イタリアをもっと良く知るためのエピソードをご紹介します。
◎シチリア島にまつわるエピソード
〜地中海、その動乱のただ中で
長い歴史を通じてヨーロッパ史の中心であり続けた地中海は、常にヨーロッパの動乱に巻き込まれる海でもありました。イタリア半島の南に浮かぶシチリア島は、そういった歴史の動きに翻弄され続けた土地だったといって良いでしょう。こちらでは「マフィアの島」というイメージばかりが先行しているシチリア島の本質へと近づくため、古代から現代へと揺れ動き続けたヨーロッパ史におけるシチリアの意義を再確認していきたいと思います。
シチリアが歴史上に初めて登場したのは、古代ギリシアで都市国家(ポリス)が隆盛していたB.C.8世紀頃のことです。ギリシア人は各地への植民を開始しており、そういった植民都市としてシチリア島にシラクサ(シュラクサイ)などの都市が成立したのです。この時代、シチリア島はギリシア人の島となりました。
しかし、後にペロポネソス戦争などを経てギリシアの影響力が弱まってくると、今度は北アフリカに根拠地をもつフェニキア人の国家:カルタゴがシチリアへの進出を図ります。間もなく、ギリシアとカルタゴは3度にわたるシチリア戦争に入り、多大な犠牲を払ってシチリア島をめぐる戦いを続けました。結果はカルタゴの勝利。こうして、紀元前300年前後から、シチリア島の大半はカルタゴ領となったのです。
とはいえ、ギリシア人の都市シラクサ・メッシーナといったシチリア東部の一部地域だけはカルタゴの勢力圏に入らなかったため、後にまた争いが発生します。カンパニア人傭兵集団マメルティニがメッシーナの実権を簒奪してシチリアを荒らし回ったことをきっかけに、事態は急速に動きました。時のシチリア僭主(独裁者)と対立したマメルティニが当時高い軍事力を誇っていたカルタゴと共和政ローマの二ヵ国に対して同時に救援・同盟を申し入れたのです。カルタゴ側とすれば、シチリアは自国領ですから、そこで揉め事があるとなれば軍を出す理由は充分にありました。一方、ローマとしても外征を拡大するチャンスですから、マメルティニの要請に応じることもやぶさかではありません。結果として、カルタゴとローマが共にシチリア島へ派兵する結果となったのでした。
2つの大国が同じ場所に軍を集めて、衝突が起きないはずはありません。シチリア島への影響力をめぐって、当然のように両軍は対立。ここに第1次ポエニ戦争が勃発したのです。勝利したローマはカルタゴ勢力をシチリアから一掃、シチリアはローマ初の属州として共和政ローマの傘下に入りました。
この後、三頭政治を経てカエサル派とポンペイウス・元老院が争った際にもシチリアは戦場になり、カエサルの勝利とその暗殺後にはポンペイウスの次男がシチリアを本拠としてローマに抵抗しました。後に鎮圧・平定されるものの、一度はオクタヴィアヌスが送り込んだ大軍を撃退するなどしており、その戦禍は長引きました。
それからしばらくはローマ帝国領でありつづけましたが、次の動乱はローマ分裂後に発生したゲルマン人の大移動でした。西ヨーロッパにはゲルマン人国家が乱立し、シチリアは再び混乱に見舞われます。ヴァンダル王国の王ガイセリックに制圧され、その後すぐに、今度は東ゴート王国の勢力下に入りました。そうかと思えば、次は東ローマ帝国がシチリア奪還のために大軍を派遣して制圧。しばらくは東ゴートと東ローマの間での奪い合いが続きました。最終的にはようやく東ローマ帝国領として落ち着き、一時的にはシチリアが東ローマの首都に選ばれて繁栄した時期もありましたが、それも長くは続かず、アラブ人の侵入によってまたもシチリアは混乱期を迎えました。
11世紀にはノルマン人の侵入(ノルマン・コンクェスト)によってノルマン人に征服され、ノルマン王朝の下でシチリア王国として独立を果たします。ルッジェーロ2世の治世で最盛期を迎え、文化大国としての地位を確立しましたが、12世紀には神聖ローマ帝国によって制圧されます。
中世に入ってもシチリアの領有権は安定しませんでした。神聖ローマ帝国が弱体化するとフランスが南イタリア・シチリアの統治権を手にし、その後はアラゴン王国の領土を経てスペイン・ハプスブルク家の統治下に入りました。時代は近世となり、フランスのブルボン家がシチリア王国を統治するようになると、シチリアは南イタリアのナポリ王国と合併することになりました。この結果、シチリア島を含む南イタリア地域は両シチリア王国として統一されたのでした。
これほど長い間、めまぐるしく統治者の変わった地域はそう多くありません。最終的にシチリア島の統治権が安定するのは、イタリア統一前夜のイタリア半島動乱期にガリバルディが両シチリア王国を解放し、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世率いるサルデーニャへと編入――イタリア王国が成立した19世紀のことになります。紀元前からずっと19世紀に至るまで、シチリアは混迷するヨーロッパの中心に有り続けました。
しかし、やっと政治的な安定を得たかに見えたシチリアに、さらなる混迷が訪れます。第二次世界大戦の末期、連合国によるイタリア攻撃に際してシチリア上陸を目指すハスキー作戦が実行されたのです。米英軍16万人と独伊軍24万人による大規模戦闘の戦地として、シチリアはまたも戦火に包まれました。シチリア島は、ヨーロッパが揺れ動くその瞬間に、混迷のただ中でもがき続けてきた島なのです。
以上、シチリア島に関するエピソードでした。次ページ以降では、イタリアの島嶼部にある世界遺産を1つずつ見ていきましょう。
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◎シチリア島にまつわるエピソード
〜地中海、その動乱のただ中で
長い歴史を通じてヨーロッパ史の中心であり続けた地中海は、常にヨーロッパの動乱に巻き込まれる海でもありました。イタリア半島の南に浮かぶシチリア島は、そういった歴史の動きに翻弄され続けた土地だったといって良いでしょう。こちらでは「マフィアの島」というイメージばかりが先行しているシチリア島の本質へと近づくため、古代から現代へと揺れ動き続けたヨーロッパ史におけるシチリアの意義を再確認していきたいと思います。
シチリアが歴史上に初めて登場したのは、古代ギリシアで都市国家(ポリス)が隆盛していたB.C.8世紀頃のことです。ギリシア人は各地への植民を開始しており、そういった植民都市としてシチリア島にシラクサ(シュラクサイ)などの都市が成立したのです。この時代、シチリア島はギリシア人の島となりました。
しかし、後にペロポネソス戦争などを経てギリシアの影響力が弱まってくると、今度は北アフリカに根拠地をもつフェニキア人の国家:カルタゴがシチリアへの進出を図ります。間もなく、ギリシアとカルタゴは3度にわたるシチリア戦争に入り、多大な犠牲を払ってシチリア島をめぐる戦いを続けました。結果はカルタゴの勝利。こうして、紀元前300年前後から、シチリア島の大半はカルタゴ領となったのです。
とはいえ、ギリシア人の都市シラクサ・メッシーナといったシチリア東部の一部地域だけはカルタゴの勢力圏に入らなかったため、後にまた争いが発生します。カンパニア人傭兵集団マメルティニがメッシーナの実権を簒奪してシチリアを荒らし回ったことをきっかけに、事態は急速に動きました。時のシチリア僭主(独裁者)と対立したマメルティニが当時高い軍事力を誇っていたカルタゴと共和政ローマの二ヵ国に対して同時に救援・同盟を申し入れたのです。カルタゴ側とすれば、シチリアは自国領ですから、そこで揉め事があるとなれば軍を出す理由は充分にありました。一方、ローマとしても外征を拡大するチャンスですから、マメルティニの要請に応じることもやぶさかではありません。結果として、カルタゴとローマが共にシチリア島へ派兵する結果となったのでした。
2つの大国が同じ場所に軍を集めて、衝突が起きないはずはありません。シチリア島への影響力をめぐって、当然のように両軍は対立。ここに第1次ポエニ戦争が勃発したのです。勝利したローマはカルタゴ勢力をシチリアから一掃、シチリアはローマ初の属州として共和政ローマの傘下に入りました。
この後、三頭政治を経てカエサル派とポンペイウス・元老院が争った際にもシチリアは戦場になり、カエサルの勝利とその暗殺後にはポンペイウスの次男がシチリアを本拠としてローマに抵抗しました。後に鎮圧・平定されるものの、一度はオクタヴィアヌスが送り込んだ大軍を撃退するなどしており、その戦禍は長引きました。
それからしばらくはローマ帝国領でありつづけましたが、次の動乱はローマ分裂後に発生したゲルマン人の大移動でした。西ヨーロッパにはゲルマン人国家が乱立し、シチリアは再び混乱に見舞われます。ヴァンダル王国の王ガイセリックに制圧され、その後すぐに、今度は東ゴート王国の勢力下に入りました。そうかと思えば、次は東ローマ帝国がシチリア奪還のために大軍を派遣して制圧。しばらくは東ゴートと東ローマの間での奪い合いが続きました。最終的にはようやく東ローマ帝国領として落ち着き、一時的にはシチリアが東ローマの首都に選ばれて繁栄した時期もありましたが、それも長くは続かず、アラブ人の侵入によってまたもシチリアは混乱期を迎えました。
11世紀にはノルマン人の侵入(ノルマン・コンクェスト)によってノルマン人に征服され、ノルマン王朝の下でシチリア王国として独立を果たします。ルッジェーロ2世の治世で最盛期を迎え、文化大国としての地位を確立しましたが、12世紀には神聖ローマ帝国によって制圧されます。
中世に入ってもシチリアの領有権は安定しませんでした。神聖ローマ帝国が弱体化するとフランスが南イタリア・シチリアの統治権を手にし、その後はアラゴン王国の領土を経てスペイン・ハプスブルク家の統治下に入りました。時代は近世となり、フランスのブルボン家がシチリア王国を統治するようになると、シチリアは南イタリアのナポリ王国と合併することになりました。この結果、シチリア島を含む南イタリア地域は両シチリア王国として統一されたのでした。
これほど長い間、めまぐるしく統治者の変わった地域はそう多くありません。最終的にシチリア島の統治権が安定するのは、イタリア統一前夜のイタリア半島動乱期にガリバルディが両シチリア王国を解放し、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世率いるサルデーニャへと編入――イタリア王国が成立した19世紀のことになります。紀元前からずっと19世紀に至るまで、シチリアは混迷するヨーロッパの中心に有り続けました。
しかし、やっと政治的な安定を得たかに見えたシチリアに、さらなる混迷が訪れます。第二次世界大戦の末期、連合国によるイタリア攻撃に際してシチリア上陸を目指すハスキー作戦が実行されたのです。米英軍16万人と独伊軍24万人による大規模戦闘の戦地として、シチリアはまたも戦火に包まれました。シチリア島は、ヨーロッパが揺れ動くその瞬間に、混迷のただ中でもがき続けてきた島なのです。
以上、シチリア島に関するエピソードでした。次ページ以降では、イタリアの島嶼部にある世界遺産を1つずつ見ていきましょう。
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